私たちの身の回りにあるPCやスマートフォンを動かす心臓部、それがCPUです。その進化の歴史は、命令セットアーキテクチャ(ISA)の絶え間ない革新と、それを巡るエコシステムの変遷の物語でもあります。本稿では、1978年に登場したIntel 8086から始まり、現代のApple M3チップに至るまで、CPUの命令セットがいかに多様化し、現在のPCやスマートフォンのエコシステムを形成してきたのかを辿ります。
8086から始まったx86命令セットの源流と多様化の夜明け
1978年、Intelが発表した8086プロセッサは、今日のパーソナルコンピュータを形作るx86命令セットのまさに源流となりました。この16ビットCISC(Complex Instruction Set Computer)アーキテクチャは、AX, BX, CX, DXといった汎用レジスタや、メモリを効率的に扱うためのセグメント方式、そして可変長命令といった特徴を持っていました。現在のCore iシリーズを搭載したPCが、外見は大きく変わっても、その命令セットの根幹は8086から連綿と受け継がれているというのは、驚くべき事実です。
80年代後半から90年代にかけて、x86命令セットはIntelだけでなく、多様なメーカーによって拡張され、普及していきました。AMDは当初Intelのセカンドソースとして、その後は互換CPUメーカーとして、Cyrix、NexGenといった企業も独自のx86互換CPUを開発しました。日本市場ではNECのPC-9801シリーズがIntel 8086互換のNEC V30などを搭載し独自の進化を遂げましたが、これらの競争がx86命令セットの改良とコストダウンを促し、今日のPCの多様性の礎となりました。
特に日本市場において、IBMが1990年に発表した「DOS/V」は、PCの歴史における転換点となりました。それまでの日本語表示を専用ハードウェアに依存していた状況から、VGAアダプタとソフトウェアだけで日本語表示を可能にしたことで、海外の安価なAT互換機が日本市場に参流する道を開きました。これにより、NEC PC-9801が築いた独自の生態系は終焉を迎え、今日のWindows PCが多様なメーカーから提供される「汎用性」のエコシステムへと繋がっていったのです。
x86と異なる命令セットの系譜:Macが辿った独自の進化の道
x86がPCの主流を築く一方で、全く異なる命令セットの系譜も存在しました。その代表格が、Motorola 68000(通称68k)です。初代Macintoshをはじめ、シャープのX68000、Amigaなどで採用されたこのCISCプロセッサは、x86とは異なり、データレジスタとアドレスレジスタを分け、命令とアドレッシングモードの組み合わせに高い正交性(Orthogonality)を持つという特徴がありました。これはプログラマにとって扱いやすい設計として評価され、独特のコンピューティング体験を提供しました。
Macintoshは、その歴史の中で幾度もCPUアーキテクチャの変更を経験してきました。68kから、IBMとMotorolaが開発したRISC(Reduced Instruction Set Computer)ベースのPowerPCへ、そして2006年には互換性と性能向上を求めてIntelのx86プロセッサへと移行しました。このIntelへの移行は、一部のユーザーからはMacの「個性の喪失」と見られることもありましたが、これはAppleが常にその時々の最適なテクノロジーを追求し、自社のエコシステムに統合していく戦略の一環でした。
このMacのCPU変遷の歴史は、今日のスマートフォンエコシステムにも通じる構図を示しています。DOS/Vが多様なメーカーによるAT互換機の普及を促し、今日のAndroidが多種多様なハードウェアとメーカーによって支えられているのと同様に、「汎用性」と「開放性」を追求する道があります。対照的に、AppleはMacにおいてもiPhoneにおいても、ハードウェアとソフトウェアを自社で垂直統合することで、一貫したユーザー体験と高度な最適化を追求する「統合型」の道を歩み続けてきたのです。
M3世代Appleシリコンが切り拓く新時代:Android開放性の未来は
そして現代、Macは再び大きな転換点を迎えました。2020年のM1チップ登場を皮切りに、AppleはIntel製CPUから自社開発のAppleシリコン(ARM64ベース)へと移行し、現在ではM3世代へと進化を遂げています。このAppleシリコンは、CPU、GPU、メモリなどを統合したSoC(System on a Chip)設計により、圧倒的なパフォーマンスと電力効率を実現。Rosetta 2というエミュレーション技術によって既存のx86アプリとの互換性も保ちつつ、Macは再び「独自路線」で高い評価を得ることに成功しました。
M1、M2、M3といったAppleシリコンは、ARM64命令セットをベースとしたRISC系のプロセッサです。かつてRISCとCISCは明確に区別されていましたが、現代のCPUにおいてはその境界は曖昧になりつつあります。x86プロセッサも内部では複雑なCISC命令をマイクロオペレーション(μOP)に分解してRISC的に処理し、ARMもAppleシリコンのように専用のNeural Engineやメディアエンジンを搭載することで、複雑な処理を効率的にこなします。AppleはARMの命令セットをライセンスしつつ、そのマイクロアーキテクチャを自社で設計することで、Macの性能を飛躍的に向上させているのです。
一方で、Androidエコシステムが長らく誇ってきた「開放性」にも変化の兆しが見えています。2026年以降、Androidではアプリのサイドロード(Playストア以外からのインストール)に関しても、開発者の本人確認が段階的に義務化される計画が発表されました。これはマルウェア対策や安全性向上を目的とするものですが、「誰でも自由にアプリを配布できる」というAndroidの大きな魅力の一つが制限される可能性があり、「iPhone化」への懸念も囁かれています。しかし、これはサイドロードの完全禁止ではなく、"身元が確認された開発者による配布"へと移行するものであり、安全性と自由度のバランスを模索する現代のエコシステムの課題を象徴しています。
Intel 8086から始まったx86命令セットの揺るぎない発展、Motorola 68000が築いたMacの個性、そしてAppleシリコンが切り拓くARM64の新時代。CPUの命令セットの歴史は、単なる技術の進化にとどまらず、PCやスマートフォンのエコシステムがいかに形成され、多様化してきたかを物語っています。垂直統合による一貫性を追求するAppleと、汎用性と開放性で多様な選択肢を提供するAndroid。この二つの潮流は、今日の私たちのデジタルライフを豊かにする一方で、互換性、セキュリティ、そして自由度といった永遠のテーマを問い続けています。未来のコンピューティング体験は、これらの命令セットとエコシステムの進化の先に、より一層興味深い景色を見せてくれることでしょう。